余裕が無くて良いことなんてない

最近ペーパードライバーを卒業した。免許を取ったのは10年ほど前なのだが、その後車を運転することがほぼ一度もなかった。しかし状況が大きく変わり、急遽練習を始めなければならないことに。約4か月ほぼ毎日車に乗り、ハンドル捌きや車幅の感覚、大嫌いだった駐車にも慣れてきた。必要に迫られれば人間何でもできるのだなと思った。

基本的にビビりなので安全運転を心がけているが、時々危うい瞬間がある。それは時間に余裕が無いときだ。急がねばとブレーキをかける回数が減り、走るのが遅い車、歩くのが遅い歩行者に苛立ち、時には暴言も吐いてしまう...。心のゆとりが無いと人間はこうも変わってしまうのかと自分でも驚く。煽り運転をする人も、正にこのような心理なのだろう。運転し始めて初めて気持ちが理解できた。人によっては状況云々ではなく、常に運転が荒い人もいる。常に余裕が無いという状況はとてもかわいそうなものだなと感じる。

 

子育てにおいても似たようなことが言える。私の場合は睡眠が十分に取れていないと、心にゆとりが持てず子供にきつくあたってしまう。特に未だに発生する夜泣きは最悪だ。低月齢時とは異なり、睡眠を遮られた挙句体重10キロ超えの子を抱っこであやすのは身体的負担が大きい。どうして寝てくれないの?と悲しさと怒りがこみ上げ、心が苦しくなる。そして翌朝、ケロッとして元気で可愛い我が子の姿を見ると、罪悪感が湧き上がるのだ。なんであんなにヒステリックになってしまったのだろう、と。

ここでも思う。虐待が起こってしまうのもこういった心の余裕の無さが原因なのだろうなと。子供を産むまでは児童虐待の報道を見るたびに、なぜ子供を産んだ?子育てが大変なことであるということは予め分かっていたのでは?と思っていた。しかし出産後、その考えは変わった。子育ては予想ができないことの連続なのだ。かつ子供が複数人、頼れる人がいない、仕事も家事もこなさなければならないという状況だとすると、どうしたって人間は狂う。何のために生きているのかも分からなくなるだろう。虐待を肯定する気はないが、余裕が無いというのはそのくらい辛い状況なのだ。

 

私の経験をつらつらと書いてみたが、あらゆる不幸は余裕の無さが引き起こすのかもしれない。いじめ、殺人、窃盗、ギャンブル等も。どうして自分はこんなことをしてしまうのだろうか、幸福ではないのだろうかと感じたときに、あ、余裕がないからだ、じゃあなぜ余裕がないのだろうか?と考えられるようになりたいものだ。まあ、その時冷静になれるかがまた問題なのだけれど...。

令和の学生たちを見て

仕事柄、中高生と関わることが多い。

私の目からするとSNS時代を生きる彼らは遥かに賢く映り、正直最初は会話をすることが怖かった。年齢は一回りほど離れている子もいて、人生経験の豊富さは比にならないはずなのに、勢いのある彼らを見ていると怖気付いてしまうのだ。改めて自分はおばさんになってしまったなぁと感じる。

 

彼らのほとんどは思春期の真っ只中、もしくは直前でコロナ禍を体験した。そのためマスク解除になった今もそれを手放せない子が多い。同じような制服、髪型、更にマスク。その見た目からは中々個性を感じづらい。最初は名前を覚えるのもかなり苦労した。

本人たちはどういう気持ちなのだろうか。今更顔を曝け出さない?ルッキズムも加速して加工アプリを手放せない?

これは私だけだろうか、マスクがあると何となく壁を感じてしまう。いつか本当の彼らに出会える日が来たら良いなと思う。

 

我が家には令和ベビーがいる。この子が学生になった時、今の学生達よりも更に上をいく勉強をしているのだろうか。小学生にしてYouTuberも当たり前の時代かもしれない。

 

慣れ親しんだものに固執してしまうと、彼らと同じ目線で会話することはできないだろう。常にアップデートできる人間でありたいなと思う。

アウトプット

お題「もっと早くやっておけばよかったと思う事」

 

久しぶりにブログを書きたくなったので、お題を探ってみた!

私がもっと早くやっておけば良かったと思うことは、圧倒的にSNSの投稿。私は所謂見る専で、インプットは四六時中行なっているものの、アウトプットは全くと言って良いほどできていない。

20代のうちにできる機会はたくさんあったのになぁ、いざ必要となった時に重い腰が上がらないよなぁ、とひたすら後悔している。

 

今年はインスタの投稿を増やしていきたいな。

人の目に留まるのが怖かったけど、そもそも見てもらえるのかという問題。

 

怖がらずに、発信力を高めよう。

発想が生まれる瞬間

私は根っからのインドア派。

だけど最近は外出も良いなと思えるようになってきた。その理由はどこからともなく発想が生まれるからだ。

発想を目的として外に出た訳ではないのに、フラッと立ち寄った店、待ち時間の長い病院、知人とのたわいも無い会話…最近はこれらのことから発想を得ることが多い。

何故そこから発想が生まれるかは具体的には分からない。多分普段インドアである分、外出した時の刺激が強くて脳が様々なインスピレーションを受け取るのだろう。

 

発想の限界を自分で決めてはダメだ。

もっと外へ出よう。可能性を信じてみよう。

やる気につながるもの

 

約1ヶ月ぶりの投稿。

試験勉強や役所の諸々で忙しく、中々アウトプットの時間を取れていなかった。

 

最近新しく思いついたことがあったので、記事に残しておこうと思う。

 

 

お金を稼ぐことに対して、人々はいろんな目的を持っていると思う。その中の1つは家族を養うことだろう。家族を食べさせるため、学校に行かせるため、不自由なく暮らしてもらいたい…等という思いからだ。それがあるからこそ仕事と向き合える人がたくさんいるはずだ。

 

けど最近はやる気を出す、高みを目指す動機にはならないかも?と考えている。稼いだお金は家族に直結するが、仕事を行うのは自分自身。自分自身が好きと思えるか、高揚感があるか、活躍できるのか…。これらが最高のパフォーマンスに繋がるのだと思う。もちろん家族の存在は大切である。ただ、それはお金を稼ぐことの動機に繋がるが、結局やる気は自分の中で生まれるものだと思う。

 

家庭持ち前提で話を進めてしまったが、話をまとめよう。要はどんな状況であれ仕事は自分自身が楽しめるかが重要でそれ自体がやる気に繋がるし、ゆくゆくは収入アップに繋がるのではないか、と考えた、という話。

 

 

久しぶりに書いたので話がまとまって無いかもしれない。また修正は加えると思う。

見て見ぬふり

 

私の母親は喫煙者だ。

父親はそれを知らず、これは長年私と母親だけの秘密だった。小さい頃は母親の秘密を守ってあげたいと子どもながらに思っていた。それに、一番近い存在がやっていることだったからか、タバコ=悪 と言う認識も無かった。でも成長と共に秘密を共有していることや、母が隠れてタバコを吸っていることに違和感を感じた。

 

ある時母が禁煙外来に通い、しばらくタバコを吸わなかった。きっかけは何だったか覚えていない。でもその時、私はとても嬉しかった。

 

程なくして母はタバコを再び吸い始めた。家にあるはずの無い携帯用の灰皿とライターを見つけてしまい、気づいたのだった。私はショックで呆然とした。

試しに母に「もうタバコ吸ってないよね?」と聞いてみた。母は「うん、吸ってないよ」ととぼけた顔で即答した。分かっていたけど、彼女に禁煙は無理だと思った。

 

最近母は風呂場でタバコを吸っている。直接目の当たりにした訳ではないが、頻繁に風呂場に篭る。数分で出てきた後、飴を舐め、何事も無かったかのように振る舞う。当然非喫煙者の私にとってはかなり匂う。風呂場にはほぼ匂いは残らないが、暖房をつけると本当に臭い。

 

黙っておこうかと悩んだが、先日浴槽に吸い殻が残っていた。はらわたが煮え繰り返る思いだった。何故急に怒りが込み上げたのかと言うと、私の子どもが関わっているからだった。私の子どもは最近浴槽を舐める。母が風呂場でどんな風にタバコを吸っているのかは知らないけれど、子供が浴槽を舐めることは知っているはずなのだ。

孫のことは心底可愛がってくれるけれど、己の欲望の為に孫が危険に遭うかもしれないという意識が無くなっていることに腹が立った。同時に、即座に喫煙を止めなかった自分にも苛立った。

 

今日、意を決して母に伝えた。外で吸ってくれ、子どもを守りきれない、と。母は落ち着いた様子で聞き入れ、理解してもらえた。

 

言い終えた後、肩の荷が下りた。見て見ぬふりはとても辛く苦しかった。言ってしまえば、家庭が壊れる気がしていたのだ。

ただそれは違った。このまま母に喫煙を許していた方が、家庭崩壊を招いていたと思う。

 

自分でもよく分からないけれど、ここに書き残しておきたいと思う出来事だった。私にとってはものすごく、頑張ったことだった。

AIにできたらな

 

子育てをしながら思うこと。言い方は悪いが中々狂ってることをやっているな、と日々思うのだ。

子どもを産むまでは出産が一大イベント過ぎて、育児のことなんて全く考えられなかったのだが、本当に大変なのは産んだ後の育児なのだ。

 

最初は子どもがどうして泣いているのか、寝てくれないのか、分からないことだらけで精神的に追い詰められる。ネットで調べても何が正解か分からない。ひたすら抱きかかえるしかなく後々体が悲鳴を上げる。言葉が通じるようになったらなったで、そう簡単には言うことを聞いてくれないし、好奇心の塊のような存在に毎日振り回される。本来人間とはこんなに制御の効かない生き物なのかと日々驚かされる。

 

それに加えて日々の家事や仕事をこなさないと生きていくことはできず、毎日生きていくのが精一杯だ。

 

AIの発達によって様々な仕事が代替されるような時代になった。育児にも何か役立つものは無いのだろうか。母親の役割を担ってくれとは言わない、でも少しでも赤ちゃんの気持ちや体調が分かったり、一瞬でミルクを作ってくれたり哺乳瓶を消毒してくれたりするような機械ができたら、どれだけの母親が救われるか。

これだけ便利な時代なのに、育児においては負担がかかることだらけだな…とふと子どもを抱えながら思い、今日のブログのテーマにした。

 

言うまでも無いが、それでも我が子は最高に可愛いし、寝る前には「今日も1日元気で生きていてくれてありがとう」と思うのである。